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カテゴリ:ラテン( 33 )

タブー Tabu

タブーという曲を知らない人でもトランペットが奏でるイントロの旋律を聴けば、あの「ちょっとだけよ。」という加藤茶のセリフを思い出して「知ってる、知ってる!」と言うことでしょう。
古い話になるが、タブーは人気絶頂期のドリフターズがテレビのゴールデンタイムで演って一世を風靡したコンとを彩った曲である。

1970年の前半はラテン音楽がロックやディスコなどの新しい音楽に押されて影が薄くなっていた時代で、いわば音楽の冬の時代だった。そんな折りしもマンボの王様ことペレス・プラードの音楽が突然変異的かつ教育ママの神経を逆撫でするような形であれ、現代のメディアとなったテレビで聴くことができたのは痛快であった。

タブーという曲はキューバの女性ソングライターであるマルガレータ・レクォーナが1931年にソン・アフロの1曲で、ババルーと共に代表作品となっている。

タブーとはポリネシア語のtapuから生まれた言葉とされ、原始民族の宗教的な禁制を指した。
触れてはならないもの、してはいけない行為、あるいは口にしてはいけない言葉などである。

タブーはそれらをヒントにした曲で、アフロ系キューバ人の奴隷の子孫がアフリカを偲ぶところから始まる。こうした曲はキューバ観光や避寒にやって来る米国のリッチな白人たちを楽しませるショーの音楽として作られた公算も大であるから、こういった歌詞にエキゾティズムと優越感を感じていた連中も少なくはなかったのではないだろうか。
by g_vocal | 2009-05-31 12:50 | ラテン

ブン シャルル・トレネ Boum!

”ブン”はシャルル・トレネ(Charles Trenet)の作品のなかでも最も初期の1938年の作曲。

シャルル・トレネが脚本を担当し主演した1938年のミュージカル映画「魅惑の道(La Route enchantée)」という映画の中で創唱されている。
Charles Trenet - La Route enchantée - YouTube

シャンソン歌手のシャルル・トレネは次々と新作を世に送った。
初期の頃の作品は最近ではほとんど歌っていないが、この”ブン”だけは例外で、自分のリサイタルの最後にいつも歌っているそうだ。
Charles Trenet - Boum - YouTube

Boum!
La pendule fait tic tac tic tac
Les oiseaux du lac font pic pic pic pic
Glou glou glou font tous les dindons
Et la jolie cloche ding din don
Mais ...Boum!


”ブン”の作詞及び作曲はシャルル・トレネとなっているが、詞の方はラウール・ブルトン(Raoul Breton )が手伝ったそうだ。ラウール・ブルトンは後に楽譜出版業となり、”La Mer”をはじめとするトレネの作品をたくさん扱った。

”ブン”という言葉は心臓の鼓動を表しており、これを舞台で踊り歌うトレネを観て、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)はトレネに”歌う狂人”もしくは”歌うピエロ”という敬称「Le fou chantant」を贈ったとか。

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私が属していたシャンソンのグループには、この”ブン”が好きでコンサートでは”ブン”ばかり歌っている人もいた。

”ブン” 日本語歌詞は高英男
時計がチクタクチクタクチクタクチ 小鳥がピッチクピッチクチ
がちょうが鳴いてるガーガーガ
遠くでかねがチンコンカン
ブ、ブン
恋の歌 ブン
世界中が ブン
しかめっ面なんがよせ ブン
恋の歌 ブン
世界中が ブン
歌えば天国
リラの花が咲いたよ
陽気にみんなで歌おう
キラキラ笑うお日様さえ
恋がしたいとさ ブン
恋の歌 ブン
世界中がブン
ブ、ブ、ブ、ブン、ブン、ブ、ブン


ステージで高英男の”ブン”を何度が聴いていますが、やはりモデラート(中くらいの速さ)で歌っていました。
by g_vocal | 2008-11-26 23:54 | ラテン

わが悲しみの夜 Mi noche triste

タンゴに市民権をもたらした「我が悲しみの夜」

アルゼンチンを代表する音楽といえば誰しもがタンゴを思い浮かべるほどである。
しかし、現在のようになるんは長い歴史があった。我が国でも1950年のごろはタンゴを意味する言葉としてポルテーニヤ音楽という言葉が好んで使われているそうである。

それはブエノスアイレスが昔から重要な貿易港として栄えたところでプエルト(港)と呼ばれたことに由来するそうで、ポルテーニョというのは港の人のことだそうだ。

この市の南東部にボカと呼ばれる港町があり、そこがタンゴの誕生の地だあるそうな。 古くが移民船がこの港に着いた。
ガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)なども集まるよになった港町がタンゴ誕生の地と呼ばれる所以だ。どこであれ、港町には船員相手の酒場がたくさんあり、客の相手をする女やヤクザ者たちが集まった。タンゴは最初、いかがわしい街にたむろする男たちが踊るための音楽として注目された。そのようない意味合いを持つダンスに一般市民が歓迎するわけもなし、次第に形を整えて音楽として聴かれるようになっていtった。
そして1917年になって、タンゴはポルテーニョの心情を表している音楽として認知されてやうやく市民権を獲得するに至ったのだ。
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その契機がカルロス・カルデル(Carlos Gardel)が歌った「我が悲しみの夜」であったそうだ。
この曲はサムエル・カストリオータ(Samuel Castriota)が作曲しパスクアル・コントゥルシ(Pascual Contursi)が作詞した初のタンゴ曲です。

ガルデルは1935年6月にコロンビアのボゴタ空港で事故に遭い他界した。今も最高のアイドルとして君臨し続けているが、ガルデルの?出生、生年?は謎に包まれている。
1911年にガルデルはホセ・ラサーノと知り合い、一緒に歌うようになった。カルロス・カルデルのその頃のレパートリーはフォークローレだったそうだ。
その後オデオンで録音を開始したが、それとは別にソロで「わが悲しみの夜」を吹き込んだ。それがカルロス・カルデルにとって初めてのタンゴで、アルゼンチン・タンゴにとっても初めてのタンゴ・カンシオンだったそうだ。

「わが悲しみの夜」の歌詞は探戈楽人 Tango Rakujin

「我が悲しみの夜」は何年か前、恵比寿のシャンソンのレッスン場で日本が誇る阿保郁夫氏が80日をかけて選曲及び編集したCDを聴いたことがある。

阿保先生のタンゴとガルデルに対する愛が全編に感じられる名盤である。
30年4月の再録音が聴けただけでも「神に感謝」である。
是非、一度聴いて下さい。

カルロス・ガルデルの「わが悲しみの夜」は新星堂系列のレコード会社であるオーマガトキ・レーベルの「大いなる遺産」という2枚組CDに収録されています。


Carlos Gardel - Mi Noche Triste - YouTube

by g_vocal | 2008-11-16 13:19 | ラテン

帆足まりこ 「パンチョスを歌おう」

それは今から8年ほど前のこと、「パンチョスを歌おう」というグループは文化センター荻窪の
中にあったいくつかの教室があり、私のめざす帆足まりこさんに近ずくことが出来たのである。     
帆足まりこさんはかってラジオ番組「S盤アワー」でおなじみであった。
「S盤アワー」がスタートしたのが戦後間もない1952年と聞いている。
そして、そのDJが帆足まりこさんであった。

その後私はラテンにも興味を持ち始じめていたので、帆足さんが出演したコンサートにで出かけて、その颯爽ともいえる魅力あるステージの虜になったものだ。

私はその帆足まりこさんに対で指導を受けることになったのだ。
ギターは三村秀次郎氏であった。
1 ロンダのよる(NOCHE DERONDA)
2 コーヒー・ルンバ(MOLIENDO CAF)
3 アマポーラ(AMAPOLA) Bフラット
資料のCDを渡された。女性用がAM、CM
                                     
個人的にレッスンが進んでゆく。3ヶ月でひとくぎり。
6人ほどの仲間がそれぞれギターを伴奏にラテン曲から選んだ曲を歌い、帆足さんからプレゼントを頂いてお別れの会を閉じた。
私の期間は7月ー9月の3ヶ月の期間であったので、今回は今日でお別れ。
帆足さんのお仕事の都合で又お目にかかれることを願って・・・アデオス!
by g_vocal | 2007-08-21 11:53 | ラテン

グラナダ Granada

ラテンの名曲「グラナダ」はスペイン南部のアンダルシヤ地方の古い都であるグラナダを賛美した歌。

作曲及び作詩ともにアグスティン・ララ(Agustin Lara)ですが、アグスティン・ララは楽譜の勉強はしていなかったそうです。

スペインの都を描いた「グラナダ」が発表された1932年にはアグスティン・ララはまだスペインに行ったことはなかったそうですが1940年代の初期にはスペインで有名になりました。1965年に当時のスペイン総統であったフランコ将軍がこの曲「グラナダ」や他のスペインを賛美した数曲に対する褒賞としてグラナダに豪邸を与えたそうです。
スタンダード曲となった「グラナダ」は色々なジャンルのミュージシャンに好まれて演奏されています。アメリカでは”ローハイド”で知られたフランキー・レインのバージョンが有名ですがフランク・シナトラも歌っています。
ともあれ、ポピュラー音楽では珍しくスケールの大きな曲なので、それだけに表現も中々難しい曲です。

アグスティン・ララはヴェラクルス出身のメキシコの作曲家で作詞家です。母親の死後に姉が経営していた宿泊所で音楽とめぐり合い30代で作曲家として評判になったそうです。

メキシコのテノール歌手であるジョーセ・モジカ又はホセ・モヒカ(José Mojica)に捧げたSolamente Una Vez(ただ一度だけ)など一連のヒット曲がアグスティン・ララを有名にしました。恋多きハンサムなララは何人もの恋人を持ち何度も結婚しましたがNoche de Ronda(ロンダの夜)はその女性に捧げた曲です。

「グラナダ」が試聴できます。(アグスティン・ララの写真)
El Proder de la Palabra - Agustín Lara - Granada

100 Años
Agustin Lara / / Asi Canta Mexico
by g_vocal | 2007-07-22 10:59 | ラテン

フラメンコ発表会

フラメンコに魅せられて その2

フラメンコ発表会では、「オープニング」から全22曲の中で最も沢山のスタイルを持ち、最もフラメンコらしい曲種一つである「Burlería(ブレリア)」が7名のダンサーの踊りによって演じられた。
勢いの良さが感じられル踊りであった。

「Farruca(ファルーカ)」はスペイン北西部のガリシア地方が発祥の地です。 タンゴ系の2拍子の感傷的で,荘重なナンバーで主に足捌きを見せる男性的な踊りです。

Farruca YouTube
Compañi­a Domingo Ortega -- 'Orfeo'

Sabicas & Escudero, EspaÂa En Dos Guitarras, Sevillanas - Fandango Del Albaicin - La Farruca
Sabicas & Escudero / / Orfeon
by g_vocal | 2007-07-07 15:41 | ラテン

フラメンコに魅せられて

今年もフラメンコが呼んでいる。
フラメンコの発表会に誘われて、例年のごとく今年も行く。

1部と2部の構成で行われた作品の中からの紹介。

<オープニング>
スペインはセビリア地方の春祭り、男も女も、老いも若きも1週間通して踊る伝統的な踊りで幕が開く。

フラメンコの音楽は歌とギターからなっている。

カンテ・フラメンコはフラメンコの歌とでバイレ・フラメンコはフラメンコの踊り。

そしてフラメンコ・ギターの演奏が加わります。これを三位一体という表現をするのだそうだ。
今年もフラメンコの季節が来た。

参考にスペインのフラメンコダンサーのジプシーダンスのカルメン・アマヤ

つかむ!コンパス―フラメンコの各曲種が分かる
浜田 吾愛 / / パセオ
by g_vocal | 2007-07-03 13:21 | ラテン

カリニョーゾ Carinhoso

「カリニョーゾ」はブラジル音楽の父が遺した名曲です。

ブラジルのポピュラー音楽の父と呼ばれる”Pixinguinha(ピシンギーニャ 897-1973を)代表する名曲中の名曲。

ブラジル人でこの曲を知らない人はまずいないだろう。
彼は13歳の頃からフルートを吹きこなし、22歳だった1919年に有名なOs Oito Batutas(
オス・オイト・バトゥータス)を結成。
1922年にはそのグループでパリにも行って話題を呼ぶ。その時ジャズに接して影響を受け、やはり天才フルート奏者のBenedito Lacerda(ベネヂート・ラセルダ)と組んで素晴らしい録音を沢山残した。

ところが本国ブラジルではクラシック畑の音楽家は、高く評価しても、ピシンギーニャが深く関わった”Choro(ショーロ)”や”サンバ”はスラム地区から生まれた音楽だったせいか概して低く見る傾向があるのは残念である。
ピシンギーニャがこの曲を作ったのは1917年とも1932年とも云われるが、1937年にJoao De Barro(ジョアン・ヂ・バロ)が歌詞をつけて当時の人気歌手”Orlando Silva(オルランド・シルヴァ)”が初めて録音し、脚光を浴びるようになった。
作曲後随分長いこと陽の目をみなかったのは、ジャズなどの影響を受けすぎているという批判を気にしたせいだといわれている。

私の心は、なぜかあなたを見ると幸せにときめく
ああ、私の愛の深さをあなたに知って、もらえたら
あなたが私から離れてゆく事はもう無いだろう

来て私の唇の熱さ感じに来て
私に心を食い尽くすこの情熱を殺しに来て


なんとも激しい愛の唄であるが、実に魅力的なコード進行で曲をまとめ、中ほどに”ショーロ”っぽいアドリブを挿入している辺りはピシンギーニャならではの曲図栗である。

こんなに美しい曲を皆で歌えるブラジルの人たちはなんて幸せなんだろうと想うことしきりである。
by g_vocal | 2006-12-22 00:59 | ラテン

泣き女 La Llorona

メキシコの民謡の「ラ・ジョローナ」はメキシコに古くから伝わる悲しい物語である。
「ラ・ジョローナ」の元の歌は恋人に捨てられ川に身を投げた娘のすすり泣く声がその岸辺では今も聞こえてくるというものですが、この曲の美しさと悲しげなリズムが広くメキシコ人に愛され、さまざまな愛の歌詞がつけられて広く歌われています。

もしも空へのぼれたら
ジョローナよ
おまえのために星を叩き落として
月をおまえの足元において
太陽を冠にしてあげるの
に」

この別れの哀しみをツバメに託した「ラ・ジョローナ」はメキシコのアーティストであるトリオ・ロス・パンチョスをはじめ、Nana Mouskou(ナナ・ムスクーリ)iやJoan Bae(ジョーン・バエズ)の他、映画「Frida(フリーダ)」のサントラにもChavela Vargas(チャベーラ・バルガス)のバージョンが収録されています。
by g_vocal | 2006-12-21 16:34 | ラテン

想いのとどく日 El Dla Que Me Quieras

タンゴという音楽はスペイン語の世界に各種あるが、最初はスペイン南部のアンダルシーア地方に生まれたらしい。

ここではいわゆるアルゼンチンタンゴのことで19世紀の後半、アルゼンチンの首都のブエノスアイレスの場末でダンスとしてのタンゴが生まれた。音楽は2拍子の単純なもので、他の国の色々なリズムの影響も受けていた。男女が抱き合って踊るところに特徴がある革命的なダンスだった。1910年頃にはドイツ製のバンドネオンという落ち着いた音色の楽器が必ずタンゴの演奏に加わるようになり聴く音楽にもなってきた。

スペイン出身の歌手のJulio Iglesias(フリオ・イグレシアス)の子供時代にはもうタンゴはアルゼンチン以外では忘れられようとしている音楽であったろう。しかしスペイン語世界では歌のタンゴはいつも人々の意識の底に残っていた。自作がないという意味で、フリオ・イグレシアスは1978年に”Caminito(カミニート)”を唄い、”Adios, Pampa Mia(アデオス・パンパ・ミア)”、そして20世紀を代表する”Cambalache(古道具屋)”を無頼な唄い方で再評価させた。

「想いのとどく日」は歌のタンゴとして最高の表現者、タンゴ歌手の元祖である”Carlos Gardel(カルロス・ガルデル)”が同名の主演映画のために作った。作詩は脚本家の”Alfredo Lepera(アルフレド・レペラ)”で、ガルデル自身が”この曲はタンゴの枠を超えた世界のポピュラー音楽の一つとして作った”と語っているそうである。

偉大な歌手”カルロス・ガルデル”はこの映画で若者が初老の男に至るるまでの半生を演じ、ラストシーンでは病死した妻に生き写しの娘が恋人を見つけるのを見守っている。この「想いのとどく日」は娘の初恋のシーンで歌われる”愛の賛歌”である

想いのとどく日
なめらかな君の吐息が私の夢を優しくなでる
華やかなバラは君の好きな色の祭りの着物に身を包む
空の青みから嫉妬深い星が二人を見つめるだろう
君の髪に巣をつくった不思議なホタルは
君が私の、慰めだとさとることだろう
by g_vocal | 2006-12-12 13:56 | ラテン