北支慰問団に参加して

1937年、昭和12年7月に北支事変が起こった翌年1月に朝日新聞が戦地慰問団派遣を企画し、吉本興業がそれに協力したそうだが、それとは別に、私もその時期に慰問に行った小劇団「プレイボックス」の一員だった。

戦時下、氷川丸で北支から北満に向かう我々小劇団の一行は大政翼賛会のメンバーとして、軍属というの身分で出発したのだった。

歌と踊りを提供した小林千代子が率いるプレイボックスの小劇団の構成は、司会を兼ねた漫談を柳寿美男、歌手としては小林千代子や当時テイチク専属だった木村肇、そして私たち3人組みの若手に楽団が6名ほどで、その他世話係りが2名程度と結構多勢になっていた。、

初めての外地、しかも戦地に於いての公演である。恐れよりも好奇心が先に立ち怖さを忘れさせていた。このようにして我々の他にもいくつかの戦地慰問グループが東京を後にしたのであった。

出し物のプログラムは約1時間半程度であったが、出発の時点では戦地の部隊名は勿論明らかにはされていなかったが、大政翼賛会の名のもとでは何の不満も許されることではなかった。現地では当然、野戦病院の慰問が主であった。もちろん傷兵さん達には歓迎された。

何しろ70年も昔のことで定かではないが、北支とは北京(ペキン)、天津(テンシン)、青島(チンタオ)であったと記憶している。北京での最終の夜は北京飯店(ホテル)であったが、なかなかのデラックス版で東京なんぞではお目にかかれないようなご馳走であった。現在でもこのホテルは名前もそのままに第一級のホテルとして残っている。
団長の小林千代子さんが帰りに着られるようにと現地の仕立て屋を呼び、三人娘にワンピースを誂えてくれた。服の好みは三人三様だったのに僅か一日で仕立て上がり、大喜びした私たち3人は東京に帰ってからも暫くの間、どこへ行くにも着ていたのだった。

慰問の音楽集団「プレイボックス」は北支では北京から天津、そして青島とスケジュールを消化していった。特に青島は素晴らしく景色の良い所で、今度来られるようなことがあれば恋人とでも来たいものだと三人娘が話し合ったこともつい昨日のことのように記憶しているが、とうとう実現することはなかった。
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by g_vocal | 2008-10-06 21:54 | おもひで
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