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終戦前の思い出 山寺の和尚さん

随分と昔のことであるが、私の実家は上野駅の近くで料理屋を営んでいたこともあり、若い自分には浅草にはよく出かけたがその浅草の劇場に出演したこともある。

私は歌を専門的に勉強しようと思い、上野の音楽学校に願書を取りに行ったが、同行した母曰く、「表にいた男性の目付きが悪い」と言うので止めてしまった。それならということで、松竹SKDのプリマドンナだった小林千代子さんがフリーになり歌手デビューしたので自宅レッスンに通うことにした。その小林さんはオペラの三浦環さんの弟子であった。
ビクター専属になったソプラノ歌手の小林さんは今でいうところの流行歌で「涙の渡り鳥」や「カリオカ」とか「人の気も知らないで」などのレコードを出してヒットした。そのビクターでは「鈴懸の径」で有名な灰田勝彦も一緒だったのだが、灰田氏のお姉さんの由紀子さんがピアニストで私は灰田さんの家で度々く伴奏して貰ったことがある。

私の師である小林さんは「プレイボックス」という歌だけでは15~16人、楽団も入れると総勢30人編成の小劇団「小林千代子一座」を結成して映画館のアトラクションなどに出演していた。

日比谷辺りの邦楽座だと勘違いしていたが、浅草の大勝館が初演だったようだ。
吉田正も歌手として所属していたが、私はその中の女性ジャズゴーラスの3人組みのメンバーだった。ゲストで浅草オペラの田谷力三やジャズの二村定一(ふたむら)も出演したこともある。
喜劇のエノケンこと榎本健一等が活躍していた時代だ。
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山寺の和尚さん
わらべ歌を服部良一氏が編曲し久保田宵ニが作詞したという「山寺の和尚さん」は、私が3人組みとして取り組んだ第1回目の曲であった。
その時代にはその曲が面白くて騒ぎながら歌っていた記憶がある。「山寺の和尚さん」の歌詞はたいした意味もなく、ただ、バンドの掛け合いが面白かった。
服部氏は当時ジャズ熱の盛んだった大阪の出身と聞くが上京した直後はダンスホールでサックスを吹いていたそうだ。後の淡谷のり子の「別れのブルース」を作曲はジャズ・フィーリングの歌として服部氏の作曲家としての地位を不動のものにしたと思う。

「山寺の和尚さん」のmidi付きの歌詞
なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・歌謡・寮歌・民謡

そのコーラスグループでは私が一番の年長であったが、それとて20歳、お次は19歳の愛ちゃん、18歳のこんちゃんの3人で組んだトリオの映画館のアトラクション出演だった。アトラクションとは何かというと、昔は劇場で映画と映画の合間に入れたエンターティメントだった。戦前の古き良き時代にはそのような企画がが流行ったものだった。その時代の浅草は興行が盛んで映画館だけでもどの位あったか記憶にないが、浅草のある劇場の横丁にハトヤという喫茶店があり、出番の合間にはみんなでその店にたむろしていたものだ。

私たちは小林さんの紹介で、オペラの稽古に参加することになった。
当時私が一員となったボーカルフォアというグループのメンバーでベースを担当していた日比野氏が銀座1丁目にあった陶雅堂という骨董屋さんの店主だったことから、店の二階に稽古場を提供して頂き毎週1回オペラのレッスンを受けていた。

その時のオペラの指揮者は内田栄一氏だったが、本番に備えて齋藤秀雄氏がお出でになり、オペラの第一回は「パリアッチ」という演目だった。
私たち3人ののパートは幕開けに3人の子供が「パリアッチだー!」と叫ぶ場面で、そのパートを練習するために本舞台が開く前に通ったのだった。
これが私のオペラ初舞台である。その後、端役ながらもホフマンの舟唄、ボッカチオ、カルメンなどの舞台に立つことが出来た。
指揮者の齋藤秀雄氏は或る時、指揮をされている最中に舞台から落ちて怪我をされたことがあり、その時には私たち3人でお見舞いに伺った思い出もある。齋藤氏のお住まいが大邸宅なのには驚いた。現在に至るまで音楽界に貢献されている齋藤氏のオフステージでの優しさに感動もしましたが、斉藤氏の残された音の世界は引き続き今でも花開いている。

以上、半世紀以上も前の思ひ出でした。
by g_vocal | 2008-09-09 12:19 | おもひで
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