ルンバ・タンバ Rumbah Tambah

「ルンバ・タンバ」はブルースの女王の異名をと取った淡谷のり子がレクオナ・キューバン・ボーイズの原曲をカバーして好評を得たヒット曲です。

日本にルンバが入って来たのは1932年(昭和7~8年)頃だったという。その数年前の1930年にキューバのDon Azpiazu(ドン・アスピアス)楽団がニユーヨークを席幕してEl Manicero(南京豆売り)が米国でヒットしたそうだ。その後、世をあげてルンバ時代へと突入して行ったわけだが、殆ど歳月を置かずに我が国でもルンバが受け入れられていたという事実には少くなからず驚かされる。日本のルンバ熱はLecuona Cuban Boys(レクオナ・キューバン・ボーイズ)のレコーどによるところが大だが、彼らのレコードが日本で初めて出たのは日本コロンビアのSP盤で昭和11年の初春だったそうだ。それに「タブー」や「アマポーラ」が続き、「ルンバ・タンバ」は1937年(昭和12年)にヒットした。それを受けて日本語の歌詞で淡谷のり子が歌い、こちらも好評を得た。数あるルンバの中でも特にに日本人に好まれたようである。

この曲を作ったのはプエルト・リコのRafael Hernández(ラファエル・エルナンデス)で”Rumba negra(ルンバ・ネグラ)”という題で知られていた時期もあるそうだ。彼の名曲の中でも「ルンバ・タンバ」一番早くから日本人に愛されてきた曲であるが、その歌詞はかなり暗く深刻で日本人向きではないのに受けてきたのはスペイン語の分かる人が多くなかった事と明るくリズミカルな曲調のせいではないだろうか。

歌の大意は、”熱帯の強烈な太陽の元、ネグロのタンバは自分の不幸な運命を嘆きながら暮らしている。自由も神も奪われ、愛情さえも引き裂かれてしまうのだ。だがタンバがもっと心を痛めているのは、自由になるあてもなく先々生きていかねばならない自分の子供の事”なのである。

わがふるさとの黒いルンバよ
生きるのはなんと悲しい事か
死ぬまで私の道ずれになってほしい

という最後の歌詞は聴いていても辛い。


ラファエル・エルナンデスがこの「ルンバ・タンバ」を作った時は奴隷解放後だったにもかかわらず、こうした歌詞を書いたのは解放以前と実質的にはなんら変わらない厳しい現実があったからと考えるのは考えすぎだろうか。
日本人がしびれたルンバの裏側のお話である。

Lecuona Cuban Boys, Vol. 1
Lecuona Cuban Boys / Reviv
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by g_vocal | 2006-12-06 12:46 | ラテン
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