夜来香

懐かしき私の青春時代、中国に行った時の写真。
チャイナドレスというよりも支那服と呼ぶべき時代、第二次世界大戦の最中のこと。
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この写真を見ると思い出すのは黎錦光が作曲した「夜來香(イエ ライ シャン)」という曲で私とほぼ同年齢の李香蘭(山口淑子)が1943年に中国語で歌って一世を風靡した。
戦犯を逃れた李香蘭は戦後帰国し、1952年に山口淑子名でビクターレコードで日本語の歌詞の「夜来香」を録音した。

夜来香 佐伯孝夫(日本語訳詞)
あわれ春風に 嘆くうぐいすよ
月に切なくも 匂う夜来香
この香りよ
長き夜の泪 唄ううぐいすよ
恋の夢消えて 残る夜来香
この夜来香

夜来香 白い花
夜来香 恋の花
ああ 胸痛く 唄かなし

あわれ春風に 嘆くうぐいすよ
つきぬ想い出の 花は夜来香
恋の夜来香
あわれ春風に 嘆くうぐいすよ
つきぬ想い出の 花は夜来香
恋の夜来香
夜来香 夜来香 夜来香

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# by g_vocal | 2010-06-18 15:06 | おもひで

光徳寺落慶法要参拝団に参加 1996年

十数年も前のことだが台湾を訪問した。

光徳寺落慶法要参拝団の一員として台湾に向かうべく成田を出発したのが1996年の2月5日のことだった。
成田をEG275便にて台湾の高尾小港空港に到着後、専用バスにて元享寺参拝。
夕刻、中国仏教界側の歓迎レセプションとして高尾の国賓大飯店で夕食である。
なかなか立派で広々としたレストランで、東京から関西まで今回の法要に参加したのは約100名以上のメンバーで熱気溢れるある会場ではそれぞれ10名ほどがひとつテーブルを囲んだ。参拝団の役員当の挨拶が始まり、続いて料理の説明もあって盛大な会であった。たくさんの僧侶の間に挟まれて異様な雰囲気を感じたが、料理はさすがで第一級の台湾料理であった。
この参拝団には我が家の菩提寺のご住職が世話役の一人になっているので勧められて参加したものである。

2月6日
台湾の第二日目の朝食は宿泊したホテル台中の通豪大飯店であった。
朝食後は9時30分から始まる光徳寺落慶法要参拝に参加するために専用バスにて高尾県の光徳寺へ。
台中には18時到着。 市内のレストランで夕食を済ませた後、台北の環亜大飯店に到着。
ホテルの部屋割りを済ませた後、専用バスにて台北市内観光で故宮博物館や忠烈祠を見学。
夕食は市内のレストランでとった。
台北の街中は多くの人々が行き交っているが、あまりにもバイクの数が多く何とも賑やかを通り越して騒々しい印象である。

2月7日
台湾三日目の朝食は宿泊ホテルの環亜大飯店にて済ませる。
再び専用バスにて台中宝覚寺や日本人墓地を参拝。 境内では大きな菩提樹に葉が茂っていたのが印象に残った。
観光バスを連ねてあちらこちらと随分と動き回ったものだ。ほんの4ヶ月前に2階の階段から転げ落ちて一時は身動きも取れないほど大変な思いをしたものだが人間というもののバイタリティーに我ながら驚く。今回の旅行に娘が同行してくれたので助かったのである。

2月8日
ホテルのレストランで毎度のバイキング朝食を済ませた後、専用バスにて台北観光に出かける。
中正記念堂や龍山寺などを参拝した後に台北レストランで昼食。
再び同バスにて午後4時30分のEG206便に搭乗すべく台湾桃園・中正国際空港へ向かった。

無事に4日間の台湾旅行も終わった。
忠告仏教會、光徳寺落慶法要参拝団の日程も無事終了した。
今から14年前のことであった。
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# by g_vocal | 2009-07-17 21:15 | おもひで

タブー Tabu

タブーという曲を知らない人でもトランペットが奏でるイントロの旋律を聴けば、あの「ちょっとだけよ。」という加藤茶のセリフを思い出して「知ってる、知ってる!」と言うことでしょう。
古い話になるが、タブーは人気絶頂期のドリフターズがテレビのゴールデンタイムで演って一世を風靡したコンとを彩った曲である。

1970年の前半はラテン音楽がロックやディスコなどの新しい音楽に押されて影が薄くなっていた時代で、いわば音楽の冬の時代だった。そんな折りしもマンボの王様ことペレス・プラードの音楽が突然変異的かつ教育ママの神経を逆撫でするような形であれ、現代のメディアとなったテレビで聴くことができたのは痛快であった。

タブーという曲はキューバの女性ソングライターであるマルガレータ・レクォーナが1931年にソン・アフロの1曲で、ババルーと共に代表作品となっている。

タブーとはポリネシア語のtapuから生まれた言葉とされ、原始民族の宗教的な禁制を指した。
触れてはならないもの、してはいけない行為、あるいは口にしてはいけない言葉などである。

タブーはそれらをヒントにした曲で、アフロ系キューバ人の奴隷の子孫がアフリカを偲ぶところから始まる。こうした曲はキューバ観光や避寒にやって来る米国のリッチな白人たちを楽しませるショーの音楽として作られた公算も大であるから、こういった歌詞にエキゾティズムと優越感を感じていた連中も少なくはなかったのではないだろうか。
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# by g_vocal | 2009-05-31 12:50 | ラテン

サンクオムとパリ祭 Cinq Hommes

日本の5人のシャンソン歌手が結成したシャンソングループにサンクオム(Cinq Hommes)があった。

そのサンクオムが誕生した時、「こういうこともできるのだな」と感心すると共に、それが素晴らしいことの誕生でもあった1950年代は日本のシャンソンの最も華やかな時期、まさに黄金期だった。1962年に石井好子が始めた「パリ祭」は現在では少々色褪せたことが残念だが、それが1977年に大庭音楽事務所に引き継がれた。
そのなかで新しい試みに挑戦したのが五人の男性シャンソン歌手により結成されたサンクオムの誕生だった。1989年、日本のシャンソン界に新しい1ページが加えられた。

美声の持ち主でハンサムで勉強家の仲良しグループであった。一人一人が独立して、良い仕事をしているのが5人集まるとこれまた素晴らしいハーモニーとなって響くのである。
その五人とは故・村上進、やしますえよしお、伊達はじめ、広瀬敏郎、青木裕史という5人の男、即ちサンク・オム(Cinq Hommes)の登場である。コーラスグループに在籍して力をつけてからソロ歌手となる例はあるが、既に独立した歌手として10年以上のキャリアを持ち、それぞれに活躍しているアーティストたちが一つのグループを結成するのは既成の概念からするとスケジュールの調整だけをとってみても考えにくい事だった。
それがあっという間に実現したのである。
アイディアの勝利であると共に、最初から五人のフィーリングがマッチする幸運な巡り合わせの結果であるから、無理なく歩調を揃えられる強みがあった。

サンクオムの初コンサートは五反田ゆうぽうと簡易保険ホールで開催され、続いて全国五箇所で公演した。
7月には恒例のシャンソンの祭典である「パリ祭」に参加してゲストのリーヌ・ルノー(Line Renaud)と共にフランス国歌の”ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)”を歌って注目を浴びた。日仏親善の「リーヌ・ルノー&サンクオム コンサート」もあったのだろうか。
その後パリ祭には必ずサンクオムが出演して華やかなステージが展開されたのだ。

そして、現在をみてみると、何と寂しい事であろうか。時が経過するという事は全てのものを奪い去るものなのか。かってのシャンソンの時代はもう終ったと人は言うが、私はそうは思わない。
時代は移り変わっていっても人の心に中に良き時代の夢と素晴らしい曲のメロディとリズムは残っているのだから。大衆のシャンソンから深く根付いている数少ないものとなっているだけなのだから。
大衆性のものから、それこそ孤独なものに変わってきただけの事だから。

  
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# by g_vocal | 2009-04-29 16:19 | シャンソン

兵隊が戦争に行く時 Quand un soldat

1952年にフランシス・ルマルク(Francis Lemarque)が作詞及び作曲をした”兵隊が戦争に行く時”はシャンソンにしては珍しく真正面からテーマをかかげ、しかも見事に成功している作品である。

この”兵隊が戦争に行く時”は日本ではフランシス・ルマルクの自演のほかにも、インドシナ戦争時にはイヴ・モンタン(Yves Montand)の名唱で知られている。

本来、フランシス・ルマルクは日本でも流行った”小さな靴屋さん(Le petit cordonnier)”や、”蛙(La grenouille (Fais un voeu))”、”パリのバラード(Ballade de Paris)”などのように庶民の心を歌う生粋のパリッ子詩人ですが、”兵隊が戦争に行く時”では激しい言葉使いとマーチのテンポで戦争を呪っている。それも戦時中のパルチザンの一人として愛するパリのために闘った思い出があるからでしょう。
Quand un soldat - YouTube
Le petit cordonnier - YouTube


Le Paris De Francis Lemarque
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Francis Lemarque

水の汀子や穂高五郎が日本語の訳詞をつけている。

兵隊が戦争に行く時
襟には名残の花 唇には戦さのうた
太鼓を轟かせて 戦地に向かう兵士
出かけるその胸には 希望がいっぱいだけど
帰りの背嚢には 汚れた下着ばかり
ご覧 若者が 戦さに出て行く
可愛い恋人に 心のこして
ご覧 夏の日の青空が みつめてる
遠く地の果てに 死ににいく若者を
これ が人の世の 哀しい定めか
恋の誓いなど 儚(ハカナ)いものさ
戦地に向かう兵士 名残の花も褪せて
死なずに帰れたなら ただそれだけ 幸せ者
そいつは幸せ者
ただそれだけ はかないもの

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# by g_vocal | 2009-04-11 11:45 | シャンソン

ひまわり Tournesol

”枯葉(Les Feuilles mortes)”と同じくシャンソン歌手のジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)と作曲家のウラジミール・コスマ(Vladimir Cosma)のコンビによる1950年の曲である。

シュール・レアリスト(超現実主義者)のジャック・プレヴェールは難解な曲も書いているが、その言葉使いはしばしば卑俗なものを捕らえて詩にしている。この”ひまわり”の詩はその典型的な例で、バスチュームやベルヴィルといった下町や労働者の吸う安煙草のジターヌ(ジプシー女)などといった事柄を取り上げて歌詞を形作っている。ウラジミール・コスマは従来の甘いメロディーから転じてジャヴァの歯切れ良いリズムを使用してパリの下町独特の雰囲気を漂わせた曲にしている。

”ひまわり”の創唱は”枯葉”と同じイヴ・モンタン(Yves Montand)。
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Montand Chante Prévert


ひまわり
今日も 明日も 秋や冬には パリの空は暗くけむる
哀しい心 けれども 春が来れば
乙女の胸に開く花

(Reftain)
ひまわり ひまわり 夏を待つ花
今日も街のかどで 踊る貧しあの娘は
いとしの花 ひかりの花
トゥーヌソル トゥーヌソル トゥーヌソル
まわる あの花

喜びの春 愛のあした
若い君の夢のせて
青い煙 パリの空に
高く香る 花の季節
(Reftain)

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# by g_vocal | 2009-03-04 10:32 | シャンソン

アムール、それは Amour, Je Te Dois

「アムール、それは(Amour, Je Te Dois)」は1960年のコック・ド・ラ・シャンソン(Coq De La Chanson Française)でグランプリを獲得した名曲。
シャンソン歌手のリサイタルがよく行われるので私たちにもお馴染みのオランピア劇場でこのコンクールは開催された。
”ジプシーたち”や”初めての日のように”など質の高いヒット曲を数多く生み出したコンクールの主宰はオランピア劇場のアートディレクター(支配人)のブリューノ・コカトリックス(Bruno Coquatrix)である。

この曲はバンドリーダーのピエール・ドルセ(Pierre Dorsay)が曲を書き、ラ・マンマ(La Mamma)で有名なロベール・ギャル(Robert Gall)が作詞、創唱者はロベール・ジャンタル(Robert Jeantal)というバリトン歌手である。最近はあまり活躍していないようだが、この”アムール、それは”は”愛のおかげで”という訳でも知られているスローロックの曲。
ロベール・ジャンタルは歌手生命の全てをこの”アムール、それは”にかけてしまったようだ。

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アムール、それは
日本語訳詩 高木史朗

アムール それは 春のたいよう
アムール それは 生きる命よ
君故に今日も楽しい幸せが一杯

アムール それは バラの香りよ
アムール それは 生きる喜び
君故にこの世は美しい
愛故に他の詩
世はすべて 光満ちる
天に星 地には花 人に愛
二人の愛 永遠に変わらぬ愛

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# by g_vocal | 2009-02-15 17:31 | シャンソン

フリオ・イグレシアス A Mis 33 Años - Julio Iglesias

世界の恋人の異名をとるスペインの人気歌手のフリオ・イグレシアスが日本でフリオ・ブームを生むきっかけとなった名アルバムが1981年に発売された「愛・フィエスタ」である。

但し、”33歳(33 años)”を収録したこのアルバム「A Mis 33 Años」がスペイン本国で発表されたのは1977年のことである。

”33歳”の作詞・作曲はフリオ・イグレシアスで、33歳になり人生の半ばに達した彼は過ぎ去った日々を振り返り歌い上げて「マイウエイ」にも勝るとも劣らぬ名曲と云われている。甘くてしかもほろ苦く、男性的でありながら優しさに満ち溢れた曲である。

33 Años - Julio Iglesias - YouTube

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オリジナルは1977年のアルバム「A mis 33 años」の試聴
http://www.amazon.com/Mis-33-A%C3%B1os-Julio-Iglesias/dp/B000002ET2
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# by g_vocal | 2009-01-23 15:43 | おもひで

ムスタキの”17才” Dix sept ans

「17才(17 Ans)」はシャンソン歌手のジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki)の哲学でもある青春を題材にして1969年に作詞及び作曲された代表曲である。

ムスタキは現在フランスで最も人気のあるシンガー・ソングライターだが、かってはピアフが歌った”ミロール”などの作詞を手掛けたものの作曲家としてはシャンソン界では影の薄い存在だった。

1970年にステージで”異国の人”を歌っていらい、レコード界でスターの道を歩んでいるようだ。

ムスタキの心の底には、いつでも愛があり、青春がある。

他にもこの曲の題材がよく似ている”もう遅すぎる”や”ヒロシマ”や”私の孤独”などの作品がある。

ムスタキの”17才”はhttp://www.wfmu.org/playlists/shows/29679で聴くことができる。
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# by g_vocal | 2008-12-30 22:20 | シャンソン

ブロードウェイの靴みがき Cireurs de Souliers de Broadway

”ブロードウェイの靴みがき(Cireurs de Souliers de Broadway)”はジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)の詩にイヴ・モンタン(Yves Montand)の専属ギタリストだったアンリ・クロラ(Henry Crolla)がメロディーをつけて1950年に発表された曲だが、実際に作られたのはそれより5年ほど前のこと。

”ブロードウエイの靴みがき”の創唱者は無論イヴ・モンタンであるが、第二次世界大戦終戦直後のイヴ・モンタンはパリを開放してくれた連合軍のアメリカ軍人の人気に乗ったと云われているが、カウボーイ姿でウエスタンなどを歌っていたそうだ。いわゆるアメリカかぶれ。
当時交流のあったエディット・ピアフ(Edith Piaf)に忠告されて徐々に方向転換を志したイヴ・モンタンは質的により高度な作品を求めて”ブロードウェイの靴みがき”や”ジャズ狂”など一連の曲を取り上げるようになったそうだ。

これらの作品は今も尚、イヴ・モンタンの重要なレパートリーとなっている。

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アルバム「Yves Montand Gold」の”Cireurs de Souliers de Broadway”の試聴はYves Montand - Cireurs de Souliers de Broadway - Musico.jp


ブロードウェイの靴みがき
日本語訳詩は小松清
イントロは”tempo de slow”

心をこめて磨いた靴
街の靴みがき
黒い靴みがき
その子に小銭を投げ
光る靴を眺めもしないで白人はゆくよ
ブロードウエイの通りの人々の群れの中に行けば
黒い子供が腕によりをかけたその靴
たちまち 踏まれて光が消えるよ
白い歯を見せて ハケでこすり キレで拭いて 歌をうたい 磨いた靴
その歌は歌う黒人トムの話



イヴ・モンタンの”ブロードウェイの靴みがき”をリアルプレーヤーで聴いて下さい。(最後の方)
Yves Montand Les Cireurs de Souliers de Broadway
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# by g_vocal | 2008-12-20 15:21 | シャンソン

君たちは太陽さ Enfants de tous pays

”恋心(L'amour C'est Pour Rien)”や”思い出のソレンツァーラ(Solenzara)”など数々のヒット曲を歌て日本でもお馴染みのエンリコ・マシアス(Enrico Macias)です。

マシアス作曲のヒット曲「君たちは太陽さ(Enfants de tous pays)」はジャック・ドマルニーとパスカル・ルネブランが作詞して軽快なギターをフィーチャーした、いかにも明るい太陽の国、マシアスの祖国アルジェリアを思わせる曲。

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エンリコ・マシアスはアルジェリアのコンスタンに生まれ、顔からも分るようにスペイン系の血を引いているユダヤ人。最初、マシアスは小学校の先生をしながら作詞作曲の勉強をするうちに、アルジェリア戦争でフランスに来るきっかけ掴んだ。そこで「さらば、ふるさと(さらば、わが祖国 / Adieu, mon pays)」を発表し、プロとして活躍することになる。それが1962年のことだそうだ。
Enrico Macias - Enfants de tous pays - YouTube

Enfants de tous pays
日本語詞 坂田寛夫
「山のかなた 海のかなた 世界中の子供たち
歌をうたえ 声も高く 君たちは太陽さ

おとなはまゆをしかめて 時々ため息をつく
おとなはいつもひとりで くよくよ心配ばかり
だけど ほら だけど ほら
灯(ともしび)が見えてくる
(始めはFox Trot)
君たちは太陽さ - YouTube

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# by g_vocal | 2008-12-08 18:56 | シャンソン

ブン シャルル・トレネ Boum!

”ブン”はシャルル・トレネ(Charles Trenet)の作品のなかでも最も初期の1938年の作曲。

シャルル・トレネが脚本を担当し主演した1938年のミュージカル映画「魅惑の道(La Route enchantée)」という映画の中で創唱されている。
Charles Trenet - La Route enchantée - YouTube

シャンソン歌手のシャルル・トレネは次々と新作を世に送った。
初期の頃の作品は最近ではほとんど歌っていないが、この”ブン”だけは例外で、自分のリサイタルの最後にいつも歌っているそうだ。
Charles Trenet - Boum - YouTube

Boum!
La pendule fait tic tac tic tac
Les oiseaux du lac font pic pic pic pic
Glou glou glou font tous les dindons
Et la jolie cloche ding din don
Mais ...Boum!


”ブン”の作詞及び作曲はシャルル・トレネとなっているが、詞の方はラウール・ブルトン(Raoul Breton )が手伝ったそうだ。ラウール・ブルトンは後に楽譜出版業となり、”La Mer”をはじめとするトレネの作品をたくさん扱った。

”ブン”という言葉は心臓の鼓動を表しており、これを舞台で踊り歌うトレネを観て、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)はトレネに”歌う狂人”もしくは”歌うピエロ”という敬称「Le fou chantant」を贈ったとか。

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私が属していたシャンソンのグループには、この”ブン”が好きでコンサートでは”ブン”ばかり歌っている人もいた。

”ブン” 日本語歌詞は高英男
時計がチクタクチクタクチクタクチ 小鳥がピッチクピッチクチ
がちょうが鳴いてるガーガーガ
遠くでかねがチンコンカン
ブ、ブン
恋の歌 ブン
世界中が ブン
しかめっ面なんがよせ ブン
恋の歌 ブン
世界中が ブン
歌えば天国
リラの花が咲いたよ
陽気にみんなで歌おう
キラキラ笑うお日様さえ
恋がしたいとさ ブン
恋の歌 ブン
世界中がブン
ブ、ブ、ブ、ブン、ブン、ブ、ブン


ステージで高英男の”ブン”を何度が聴いていますが、やはりモデラート(中くらいの速さ)で歌っていました。
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# by g_vocal | 2008-11-26 23:54 | ラテン

待ちましょう J'attendrai

第二次世界大戦も激しさを増す一方でフランスはドイツ占領されてしまった。
フランスの人々は解放軍の到着を待ち望み、この歌「J'attendrai」に希望を託して歌ったものであると云われている。

1933年のこと、イタリアでオーケストラの指揮者だったディノ・オルヴィエーリ(Dino Oliveri)がプッチーニのオペラの「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」にヒントを得て作った曲で、原題はイタリア語で「Tornerai(君は帰って来るだろう)」、又はフランス語で「Au Revoir」というそうだ。

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フランスで”J'attendrai”を創唱したのはイタリア出身の人気歌手のリナ・ケティ(Rina Ketty)だった。
その人気のほどは大変なもので、ドイツのレマルク(Remarque)の小説「凱旋門(Arc de Triomphe)」にも描写されているほどであったが、戦後には1954年にビング・クロスビーが出演したジョージ・シートン監督のアメリカ映画「失われた少年(Little Boy Lost)」の他、1968年の「大侵略」や1972年の「私のように美しい娘」など戦争関連映画で使用されて広く世界の知るところとなった。
Rina Ketty - J'attendrai

日本でも「待ちましょう」はブルースの女王といわれた淡谷のり子が歌っているが、この”J'attendrai”が好きな人は多く、特にシャンソン・ファンには好まれている。
”J'attendrai”は大変難しい曲だが、この曲から入ってくるシャンソン愛好家も多いといわれている。

”J'attendrai”には菅美紗緒が日本語の歌詞を付けているが、6小節ほどのイントロから、「花びらの色あせ、ともしびも消える 日は過ぎて なやみに心は帰らぬ 待ちましょう」と本題に入っていく。

最近はあまり歌われないのがとても残念である。

1937年にリナ・ケティが歌った”J'attendrai”のフランス語歌詞
フレンチポップス100年史
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# by g_vocal | 2008-11-17 15:13 | シャンソン

わが悲しみの夜 Mi noche triste

タンゴに市民権をもたらした「我が悲しみの夜」

アルゼンチンを代表する音楽といえば誰しもがタンゴを思い浮かべるほどである。
しかし、現在のようになるんは長い歴史があった。我が国でも1950年のごろはタンゴを意味する言葉としてポルテーニヤ音楽という言葉が好んで使われているそうである。

それはブエノスアイレスが昔から重要な貿易港として栄えたところでプエルト(港)と呼ばれたことに由来するそうで、ポルテーニョというのは港の人のことだそうだ。

この市の南東部にボカと呼ばれる港町があり、そこがタンゴの誕生の地だあるそうな。 古くが移民船がこの港に着いた。
ガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)なども集まるよになった港町がタンゴ誕生の地と呼ばれる所以だ。どこであれ、港町には船員相手の酒場がたくさんあり、客の相手をする女やヤクザ者たちが集まった。タンゴは最初、いかがわしい街にたむろする男たちが踊るための音楽として注目された。そのようない意味合いを持つダンスに一般市民が歓迎するわけもなし、次第に形を整えて音楽として聴かれるようになっていtった。
そして1917年になって、タンゴはポルテーニョの心情を表している音楽として認知されてやうやく市民権を獲得するに至ったのだ。
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その契機がカルロス・カルデル(Carlos Gardel)が歌った「我が悲しみの夜」であったそうだ。
この曲はサムエル・カストリオータ(Samuel Castriota)が作曲しパスクアル・コントゥルシ(Pascual Contursi)が作詞した初のタンゴ曲です。

ガルデルは1935年6月にコロンビアのボゴタ空港で事故に遭い他界した。今も最高のアイドルとして君臨し続けているが、ガルデルの?出生、生年?は謎に包まれている。
1911年にガルデルはホセ・ラサーノと知り合い、一緒に歌うようになった。カルロス・カルデルのその頃のレパートリーはフォークローレだったそうだ。
その後オデオンで録音を開始したが、それとは別にソロで「わが悲しみの夜」を吹き込んだ。それがカルロス・カルデルにとって初めてのタンゴで、アルゼンチン・タンゴにとっても初めてのタンゴ・カンシオンだったそうだ。

「わが悲しみの夜」の歌詞は探戈楽人 Tango Rakujin

「我が悲しみの夜」は何年か前、恵比寿のシャンソンのレッスン場で日本が誇る阿保郁夫氏が80日をかけて選曲及び編集したCDを聴いたことがある。

阿保先生のタンゴとガルデルに対する愛が全編に感じられる名盤である。
30年4月の再録音が聴けただけでも「神に感謝」である。
是非、一度聴いて下さい。

カルロス・ガルデルの「わが悲しみの夜」は新星堂系列のレコード会社であるオーマガトキ・レーベルの「大いなる遺産」という2枚組CDに収録されています。


Carlos Gardel - Mi Noche Triste - YouTube

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# by g_vocal | 2008-11-16 13:19 | ラテン

幻の五族協和劇団

はるか昔のこと、或る日私の両親を訪ねての客があった。それは二人の男性で、一人は室町京之助という芝居の台本などを書く人であり、もう一人は映画の時代劇の役者で小林重四郎であった。私が歌手として北支に慰問に行ったことを聞いて来たのだそうだ。

「実は、この度、日本民族、漢民族、満州民族、朝鮮民族、蒙古民族の人々で”五族協和”のチームを作りたい」との話だった。

既にSKD(松竹歌劇団)から15名ほどのダンスチームが集まり、その講師としてバレーの石井獏門下生3名も決まっているが、歌の方が中々決まらないのでお願いに来たとのこと。両親とも相談し、知人たちにも話を聞いて貰い、気に入らなければすぐ帰ってきたら良いと言われたので、私は様子をみて来ようと思った。
※五族協和とは1932年に日本が満州国を建国した際、アジアの5つの民族が平等に暮らすという理念を掲げたものだったが関東軍の独走により抗日運動が起こった。

結論から言えば、無事には帰って来たものの、あの話はいい加減そのもの。中国の新京の吉野町の宿泊所に寝泊りは出来たが、SKDの踊り子たちは練習のスタジオもなく、全く暇を持て余していたようだった。その時、浪曲師の広沢虎造が慰問に来たのを知ってSKDの人たちは頼んで連れて帰って貰った。私の方は一人だけラジオ放送の番組を受けたりして満蓄の方々の世話を受けてなんとか過ごしていた。
当時は満映には東京のPCL(東宝)から録音技師が何名か来ていて、森繁久弥や小暮美千代などの台本の読み合わせを見学したりして、私としては勉強にもなり未開発の分野で面白いこともあった。
※満映とは関東軍が日本を宣伝するために作った満州映画協会のこと。

暫くして石井獏関係の人たちと私たち残った者全員がハルビンに移った。

ハルビンには中国人はいない。白系ロシア人の町。「東洋のモスクワ」を目指す都市づくり、ハルビンは楽園であり、松花江の美しさも独り占め。
が、やがてロシアで革命が起こりハルビンに住む白系ロシア人の生活は一変する。処世術が上手く金儲けをした人、パン売りや靴磨きに転落した人などとそれぞれの人生行路を狂わせた事件だった。祖国に帰れないハルビンの白系ロシア人たちは良き時代を偲び乍、松花江近辺で遊んだようだ。
変わってハルビンに進出した日本人も敗戦で日本に帰り、今でも松花江に思いを馳せていることだろう。

ハルビンでは中央のキタイスカヤには白系ロシア人の経営する洒落たレストランやカフェがたくさんあった。その頃東京ではその様な雰囲気の店など皆無であったし、価格も低いこともあり私は毎日のように一人で独りでレストランに行って食事を楽しんだものだった。野菜の嫌いな私はサラダがこんなに美味であることを初めて知った。

再び新京に戻ると私の家から早く帰るようにと言ってきたので、間もなく大連港から独りで神戸の港に着いたのだった。
手土産も無い私に対して、東京から迎えに来てくれた母の唖然とした一言、「みんな食べちゃったの?」をつい昨日のことのように思い出す。無謀な青春の一ページだった。
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# by g_vocal | 2008-11-07 09:08 | おもひで

北満に、満鉄亜細亜号で。

考えてみれば70年も昔のことである。
中国に初めて僅か五百米の短い鉄道が敷かれて0号機関車が走ったのが1865年だそうである。

我々慰問団の一行は中国東北部に行った。満州の北部は我が国でいえば東北地方にあたる。新京(シンキョウ)、奉天(ホウテン)、撫順(ブジュン)、鞍山(アンザン)が予定に入っていた。満州の東北地方を疾走する大連と新京間を結ぶ新型の特急列車「亜細亜号」、屋根に高射砲を取り付けたSL(蒸気機関車)の車窓からの風景は圧巻であり、見渡す限りのコーリャン畑や地平線の彼方に沈んでゆく大きな真っ赤な太陽を目にして、改めて中国の広大さを感じたものである。亜細亜号は現在の新幹線のように素晴らしく思えた。

中国きっての鋼鉄都市(コンビナードの街)鞍山と同様に撫順は満鉄が重要な財源としていた石炭の町だが、そこで思いがけなく女学校時代の仲良しグループの一人であった友人に出会った。ごく僅かの時間ではあったがお互いに奇遇を喜び合いながら学生時代に思いを馳せた。学生時代の4年間に私と机を並べていた友人である水木さんの父上は画家と聞いたが、当時彼女はご主人の仕事の関係で撫順に来ていたのだとか。今では日本の島根に居られる彼女と便りをやり取りしている。

慰問団一行は鞍山からハルビンまで行ったが、これも汽車の旅だった。1917年のロシア革命後に白系ロシア人が作ったハルビンには日本の隅田川摸したと云われるスンガリー(松河江)がキタイスカヤ街の突き当たりにあり、冬には河が凍ってスケートが出来たが、スンガリー河の中央の太陽島があり現在は療養所があると聞く。
注:白系ロシア人とは旧ロシア帝国からの亡命者を指し、ロシア革命後の共産主義を嫌ってロシア国外に脱出した当時のロシア国民のことだそうだ。1930年代後半にスターリンの行った大粛清(政治弾圧)の犠牲者となった人々もいたと聞く。

ハルビンは新生を迎えるまでは幾多の苦難の歴史があったそうだ。
19世紀には帝政ロシアの侵略を受け、20世紀には日本の植民地となったが、1946年4月28日には中国共産党の指導する解放軍により解放され社会主義の重工業地帯としてその名のように輝かしい都市に生まれ変わったのである。

私の憧れの街、ハルビンのキタイスカヤ通りにはBGMに白系ロシア人のトリオで音楽を聞かせてくれたモデルンという大きなミュージックホールがあった。この店を気に入った私はハルビン滞在中によくロシア民謡やセミクラシック音楽を聴いて楽しんだものだった。

色々な思い出を胸に私たちは帰途についた。無事に慰問の責任を終えて日本に帰ることが出来たのだった。

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# by g_vocal | 2008-10-18 23:17 | おもひで

北支慰問団に参加して

1937年、昭和12年7月に北支事変が起こった翌年1月に朝日新聞が戦地慰問団派遣を企画し、吉本興業がそれに協力したそうだが、それとは別に、私もその時期に慰問に行った小劇団「プレイボックス」の一員だった。

戦時下、氷川丸で北支から北満に向かう我々小劇団の一行は大政翼賛会のメンバーとして、軍属というの身分で出発したのだった。

歌と踊りを提供した小林千代子が率いるプレイボックスの小劇団の構成は、司会を兼ねた漫談を柳寿美男、歌手としては小林千代子や当時テイチク専属だった木村肇、そして私たち3人組みの若手に楽団が6名ほどで、その他世話係りが2名程度と結構多勢になっていた。、

初めての外地、しかも戦地に於いての公演である。恐れよりも好奇心が先に立ち怖さを忘れさせていた。このようにして我々の他にもいくつかの戦地慰問グループが東京を後にしたのであった。

出し物のプログラムは約1時間半程度であったが、出発の時点では戦地の部隊名は勿論明らかにはされていなかったが、大政翼賛会の名のもとでは何の不満も許されることではなかった。現地では当然、野戦病院の慰問が主であった。もちろん傷兵さん達には歓迎された。

何しろ70年も昔のことで定かではないが、北支とは北京(ペキン)、天津(テンシン)、青島(チンタオ)であったと記憶している。北京での最終の夜は北京飯店(ホテル)であったが、なかなかのデラックス版で東京なんぞではお目にかかれないようなご馳走であった。現在でもこのホテルは名前もそのままに第一級のホテルとして残っている。
団長の小林千代子さんが帰りに着られるようにと現地の仕立て屋を呼び、三人娘にワンピースを誂えてくれた。服の好みは三人三様だったのに僅か一日で仕立て上がり、大喜びした私たち3人は東京に帰ってからも暫くの間、どこへ行くにも着ていたのだった。

慰問の音楽集団「プレイボックス」は北支では北京から天津、そして青島とスケジュールを消化していった。特に青島は素晴らしく景色の良い所で、今度来られるようなことがあれば恋人とでも来たいものだと三人娘が話し合ったこともつい昨日のことのように記憶しているが、とうとう実現することはなかった。
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# by g_vocal | 2008-10-06 21:54 | おもひで

終戦前の思い出 山寺の和尚さん

随分と昔のことであるが、私の実家は上野駅の近くで料理屋を営んでいたこともあり、若い自分には浅草にはよく出かけたがその浅草の劇場に出演したこともある。

私は歌を専門的に勉強しようと思い、上野の音楽学校に願書を取りに行ったが、同行した母曰く、「表にいた男性の目付きが悪い」と言うので止めてしまった。それならということで、松竹SKDのプリマドンナだった小林千代子さんがフリーになり歌手デビューしたので自宅レッスンに通うことにした。その小林さんはオペラの三浦環さんの弟子であった。
ビクター専属になったソプラノ歌手の小林さんは今でいうところの流行歌で「涙の渡り鳥」や「カリオカ」とか「人の気も知らないで」などのレコードを出してヒットした。そのビクターでは「鈴懸の径」で有名な灰田勝彦も一緒だったのだが、灰田氏のお姉さんの由紀子さんがピアニストで私は灰田さんの家で度々く伴奏して貰ったことがある。

私の師である小林さんは「プレイボックス」という歌だけでは15~16人、楽団も入れると総勢30人編成の小劇団「小林千代子一座」を結成して映画館のアトラクションなどに出演していた。

日比谷辺りの邦楽座だと勘違いしていたが、浅草の大勝館が初演だったようだ。
吉田正も歌手として所属していたが、私はその中の女性ジャズゴーラスの3人組みのメンバーだった。ゲストで浅草オペラの田谷力三やジャズの二村定一(ふたむら)も出演したこともある。
喜劇のエノケンこと榎本健一等が活躍していた時代だ。
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山寺の和尚さん
わらべ歌を服部良一氏が編曲し久保田宵ニが作詞したという「山寺の和尚さん」は、私が3人組みとして取り組んだ第1回目の曲であった。
その時代にはその曲が面白くて騒ぎながら歌っていた記憶がある。「山寺の和尚さん」の歌詞はたいした意味もなく、ただ、バンドの掛け合いが面白かった。
服部氏は当時ジャズ熱の盛んだった大阪の出身と聞くが上京した直後はダンスホールでサックスを吹いていたそうだ。後の淡谷のり子の「別れのブルース」を作曲はジャズ・フィーリングの歌として服部氏の作曲家としての地位を不動のものにしたと思う。

「山寺の和尚さん」のmidi付きの歌詞
なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・歌謡・寮歌・民謡

そのコーラスグループでは私が一番の年長であったが、それとて20歳、お次は19歳の愛ちゃん、18歳のこんちゃんの3人で組んだトリオの映画館のアトラクション出演だった。アトラクションとは何かというと、昔は劇場で映画と映画の合間に入れたエンターティメントだった。戦前の古き良き時代にはそのような企画がが流行ったものだった。その時代の浅草は興行が盛んで映画館だけでもどの位あったか記憶にないが、浅草のある劇場の横丁にハトヤという喫茶店があり、出番の合間にはみんなでその店にたむろしていたものだ。

私たちは小林さんの紹介で、オペラの稽古に参加することになった。
当時私が一員となったボーカルフォアというグループのメンバーでベースを担当していた日比野氏が銀座1丁目にあった陶雅堂という骨董屋さんの店主だったことから、店の二階に稽古場を提供して頂き毎週1回オペラのレッスンを受けていた。

その時のオペラの指揮者は内田栄一氏だったが、本番に備えて齋藤秀雄氏がお出でになり、オペラの第一回は「パリアッチ」という演目だった。
私たち3人ののパートは幕開けに3人の子供が「パリアッチだー!」と叫ぶ場面で、そのパートを練習するために本舞台が開く前に通ったのだった。
これが私のオペラ初舞台である。その後、端役ながらもホフマンの舟唄、ボッカチオ、カルメンなどの舞台に立つことが出来た。
指揮者の齋藤秀雄氏は或る時、指揮をされている最中に舞台から落ちて怪我をされたことがあり、その時には私たち3人でお見舞いに伺った思い出もある。齋藤氏のお住まいが大邸宅なのには驚いた。現在に至るまで音楽界に貢献されている齋藤氏のオフステージでの優しさに感動もしましたが、斉藤氏の残された音の世界は引き続き今でも花開いている。

以上、半世紀以上も前の思ひ出でした。
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# by g_vocal | 2008-09-09 12:19 | おもひで

愛は限りなく Dio, Come ti amo

「愛は限りなく(Dio come ti amo)」はヴォラーレ等多くの名作でカンツォーネ 史を変えた最大のシンガー・ソングライター「ドメニコ・モドーニョ(Domenico Modugno)」がジリオラ・チンクエッテイ(Gigliola Cinquetti)をパートナーに1966年のサンレモ音楽祭で優勝した”愛の賛歌”です。
原題の意味は”神よ、なんと私はあなたを愛しているのだろう。”
このカンツオーネは難しいのに多くの人に好まれて殊にコンサートには必ず歌われる曲である。

愛は限りなく

雲が流れる空をあなたの胸の白いハンカチのようにその白さが胸にしみる

Dio, Come ti amo
この幸せを胸いっぱいに抱きしめたい
甘いくちずけ やさしい言葉 幸せすぎて怖いいくらいなの
Dio, Come ti amo
この幸せを涙でそっと暖めたい
愛は喜び 愛は悲しみ つばめのように自由に空へ

それが愛なの 流れのように自由に海へ それが恋か
Dio, Come ti amo

愛こそすべて


Dio come ti amo Domenico Modugno 1966 - YouTube
Dio come ti amo Gigliola Cinquetti 1966 - YouTube
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# by g_vocal | 2007-12-23 16:24 | カンツォーネ

ミーナの「雨」 Mina - Un po di piu

大分以前の事になる。或るコンサートで聴いた曲の中で曲名が”Un po di piu ”だと分かり、その後何回か聴いた後にそれがやっとミーナが歌っていることが分かった。
日本では村上進さんの店である”ウナ・カンツオーネ”にも聴きに行ったりしていたが、1983年の「ぶどうの季節」というタイトルのコンサートでで、その中にもミーナの「雨(Un po di piu)」があった。

私は今回も「雨」について中々思う様にゆかなかったが幸いに時間的には今年中になんとかなりそうと希望をもっている。”Un po di piu ”の正確な曲を知ることが第一番であるから、原曲が届くのを待っていたのである。


そして、やっとミーナの「雨」が聴ける。
だいぶ時間が随分かかったがやっとj自分のところにCDが届いた。
4分程の曲であるが、大体は自分の思い通りの歌い方であった。初めの4小節は全く思っていた通りだったので、こんな感じで歌えばいいのかと落ち着いて聴けた。この曲は何年も前から考えていたので歌い込めば思いどうりにゆけそうだ。

”Un po di piu ”はイギリスの作曲家のシエル・シャピロ(Shel Shapiro)の作曲にSergio Bardotti(セルジオ・バルドッティ)の歌詞になるもので、シエル・シャピロはザ・ロークス(The Rokes )というイギリスで活躍したイタリアのグループサウンズ(GS)のリーダーだったが現在は作曲家としてイタリアで活躍している。ちなみに日本のGSのテンプターズのデビュー曲のB面がザ・ロークスの「今日を生きよう(Piangi Con' Me)」だったそうだ。
ミーナの「雨(Mina - Un po di piu )」は日本では訳詩を直村恵子が付けている。


今夜もまた雨がふりつづいている 屋根に落ちる雨の雫が
いつからか私の胸の中で 孤独の足音にかわってゆく

あの時も今夜のように激しい雨が窓をぬらし
悲しみは前触れもなく私のもとへ訪れた
別れをいうあなたのくちびるを,凍り着くような悲しみでみつめていた
わたしのまわりから雨の音さえ消えて
最後のあの言葉がこだまのようによみがえる
雨の中に幸せを追いかけた
追えばおうほどみじめな終わりが来るとしっても

あなただけをひたすら愛しつづけた
そして今の私には
悲しみのほかには何もなにひと
あなたを愛した後ではもう
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# by g_vocal | 2007-12-21 14:11 | カンツォーネ