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摩天楼の世界

1985年の事、10月27年日比谷東宝ツインタワービルB3にあったエスパース・ジロウーで私はシャンソンに出会った。
それが深緑夏代主催のシャンソン教室の第4回発表会の日であった。
既にその日から20年以上も経過しているのに記憶は昨日のことのように新しい感動に生きている。

今はエスパース・ジロウのあったビルはないが、シャンソンに出会った深緑シャンソン教室は今も健在であり、発表会も年1回開かれている。
私も第5回から10回までのステージに出して頂いている。

発表会が終わると次の年の幹事が選ばれる。勿論、師である主催の深緑さんのお手伝いであるが中々むずかしい。2・3人が組んであたる時には意見が合わない事もあったようだ。それだけに無事に発表会が終了した後の気分は「やったー!」の一言につきる。
レッスンは厳しくて震えあがる。

個人指導の時には皆、緊張の連続であった。5回目の発表会の時には30名が2部構成で出演し、ホールはツズキスタジオ2F「ツズキサロン」で、演奏はトリオでピアノ・ドラム・ベースだった。
自分は5番目で「アデユー」を歌ったが上手から出て歩いてセンターに行くのが怖いという初舞台の恐怖を味わった。

他の人のを聴くくゆとりもなく、控え室に入った時、2部の終わりに出る先輩に「笑って、笑って!」とカメラのシャッターを押してくれた。センスのいい先輩で的確に歌に衣装にのアドバイスをしてくれた。

2年目は新宿の伊勢丹前スカラ座ビル6Fの「モーツアルトサロン」で開催された今回は、8月16日であったが、24名で私はベコーの「この恋に生きて」を歌った。

3回目は殆ど新人の幹事で7回目を開催することになり、水道橋近くの「バリオ・ホール」で28名が参加した。なんと今回の幹事は私もその中の1名であった。
曲はアランバリエールの「アンポルテモア」で難しい歌であった。
会を重ねるごとに曲は増えていったが、何か疑問も増え、勉強の仕方に不安が付きまとい、あれこれと暗中模索の時が過ぎた。

やがて10回目を迎えようとした時に決断を迫られた。
この回にはどうしても自分の歌いたいシャンソンを歌おうと。
勿論、深緑さんは師匠として「ノー」であった。
「摩天楼」、アダモのこの曲は当時新人がコンクールで入賞して話題になっていたシャンソンだった。
そしてどうしてもうまく歌えない時は諦めるとの約束のもとに、「よしそれじゃ!」とレッスンに入る。
歌詞は二つあるが「矢田部道一氏」の訳詩になる。
レッスンは8小節ずつ始めの歌い出しのルバートの8小節が終わり、その後からがリズムで時間がかかった。「膝の後ろでリズムを取る!」などと注意が飛ぶ。それでも3ヶ月程でやっと「摩天楼」を発表会に出せる事になった。

第10回の発表会は1991年9月8日、日仏会館で開催された。
摩天楼は2部で念願通りに歌うことが出来た。その後何回となく機会のある度にに歌っているが、やはり私の心に残るのは発表会の日の摩天楼である。その日で恩師であった深緑さんのコミニュテイカレッジに別れを告げたのである。

摩天楼  訳詩  谷田部道一
アメリカに出かけて驚いた摩天楼
イェイ イェイ イェイ イェイ
空高くそびえている 眼をうばうあの摩天楼
なにもかもみおろしてるたくましく強い巨人を

もしもあの摩天楼が強さだけを競ったなら
この街はどんなふうに破壊されてしまうだろう
イェイ イェイ イェイ イェイイェイ
どちらが勝っても 二人とも傷付く
名もしれぬ建物も戦いのまきぞえに
それだけじゃ終わらない 街じゅうが死んでしまう
いつか摩天楼が倒れる前にこんな争いはやめさせよう
イェイ イェイ イェイ イェイイェイ イェイ

だけどあの摩天楼は戦いをやめなかった
どちらかが倒れるまで最後までなぐりあった
イェイ イェイ イェイ イェイイエイ
一人は血をはきのたうちまわった ひとりは手足をなくしてしまった
その時彼らが始めて見たのは 勝利に輝く光の空しさ
どちらかが黄色いから どちらかが黒かったから
戦った摩天楼の痛ましい物語はよくあるだろう
イェイ イェイ イェイ イェイイェイ  イェイ


アダモは摩天楼を発表する前年の1967年、ル・ネオンを作りましたが摩天楼ほどの人気は得られなかった。
自分としては、「摩天楼」の鋭さより「ル・ネオン」のメロデーの面白さで比較しながらよく歌ったものです。
「ルネオン」のほうが皮肉たっぷりにアメリカを眺めているようです。
イェーイ!
摩天楼の世界_c0000146_12283429.jpg

by g_vocal | 2006-09-04 13:08 | シャンソン
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